十代目馬生「崇徳院」
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あるとおかしいので、
「菊江仏壇(ペン入れ)」から
文章を独立させ、新たな記事にしました。
内容は、ほぼコピペですので、
そんなにいじってません。
あるとおかしいので、
「菊江仏壇(ペン入れ)」から
文章を独立させ、新たな記事にしました。
内容は、ほぼコピペですので、
そんなにいじってません。
↓
↓
十代目馬生の「崇徳院」、
テキスト化しようと思いましたが、
あえなく、タイムアップ。
105円で、3日間の視聴でした。
まだ半分もテキスト化できていません。
東京の「崇徳院」は、
三代目 桂 三木助の「崇徳院」が根っこにあって、
それ以外の型はないと思ってたんです。
例外は、志ん朝くらいで。
馬生の「崇徳院」は、私の考えを覆す内容でした。
三代目三木助が東京の「崇徳院」を作る以前、
東京(というより江戸)には、
上方の崇徳院に相当する噺がありました。
「皿屋」または「花見扇」と呼ばれるネタです。
ストーリーは似ているけども、
比べてみると、異なっている箇所が多く、
雰囲気そのものが違います。
当初は一緒の噺だったけれども、
東西に分化するのが早かった感じがします。
三代目三木助は、江戸の「皿屋」「花見扇」の
流れをくんでいない「崇徳院」を作りました。
上方から移植したんです。
自分の言葉や先輩のアイデアを足しつつ(多分)。
私が馬生の「崇徳院」を聴いて、しびれたのは、
江戸の「皿屋」「花見扇」の流れをくんでいたから
なんですね。
これはもう、吃驚しました。
・主人公が熊五郎ではなく、金兵衛です。
「皿屋」「花見扇」の主人公も金兵衛でした。
ただし上記の金兵衛は、お調子者の貸本屋で、
熊五郎のような荒々しさはありません。
馬生の金兵衛は、名前は金兵衛だけれども、
性格は、熊五郎(職人気質)でした。
・冒頭に番頭が長々と喋る。
若旦那が思いつめているようだ、思いを叶えれば治る、
そう医者が言っていたと、言っています。
多くの「崇徳院」では、
ここは親旦那の台詞になっていて、
番頭は殆ど出てきません。
こういったやり方は、「皿屋」「花見扇」に
出てくるものです。
・若旦那の部屋に入る際、
薬の匂いがプーンとして…という台詞が無い。
これは、六代目松鶴もそうでした。
古い型には薬の匂いが出てきません。
・出会いは、向島(むこうじま)の花見の茶屋。
上方の崇徳院は「高津神社」。見晴らしのよい所です。
東京は「上野の清水寺」。見晴らしのよい所です。
向島の花見は「皿屋」「花見扇」の設定に近いです。
向島とはっきり書いてなかったかもしれませんが、
(追記:上野の花見でした)
何せ、平地の花見です。
・お嬢さんが、先に茶屋で休んでいた。
若旦那は後からお店に入ってお嬢さんを見初めます。
多くの「崇徳院」では、
お嬢さんが若旦那の後に、茶屋へ入ってきて、
どういう訳か、お嬢さんが先に茶屋を出て行きます。
ここは不自然に感じるところです。
・お嬢さんが、塩瀬の茶袱紗をわざと落として、
若旦那が拾う。そのお礼として、
女持ちの扇に、崇徳院の上の句を書いて渡す。
扇に歌を書くやり方は、
六代目松鶴です。
五代目松鶴は、扇と言っていた時期もあったような
気もするのですが、ラジオでは「料紙」にしており、
上方の崇徳院は、殆ど「料紙」になっています。
一方、東京の三代目三木助は、
桜の木の枝に下がっていた短冊が落ちてきて、
そこに、たまたま崇徳院の上の句が書いてあって、
お嬢さんがそれを拾い、若旦那に渡す。
東京では、このやり方が多いように思います。
志ん朝は、お嬢さんが短冊に書いて渡すやり方にしてましたが。
扇に歌を書いて相手に渡すのは、
平安時代の貴族がやっていたように思います。
上方の崇徳院の古い型は、
京都の清水寺が舞台で、小僧同士の喧嘩を仲裁した
若旦那に、お嬢さんが歌を書いた扇を手渡したそうです。
兎に角、「扇」は、かなり古いやり方です。
・金兵衛が二回、母屋を訪れる。
親旦那が、お嬢さんが見つかったと、
勘違いして、金兵衛にご馳走を出せ、と口にしますが、
違うと分かった途端に態度を変えます。
これは、三代目三木助が削った場面で、
東京の崇徳院では、
全くと言っていいほど見られないものでした。
なぜ、馬生は、
この場面を入れたのでしょうか。
ここは、「皿屋」「花見扇」でも無い箇所です。
五代目松鶴から稽古をつけてもらったと、
本に書いてありましたが、上方の匂いを感じます。
(ちなみに、ご馳走は、ぶりの照り焼きと、お酒)
・せをはやみ~!と、道の真ん中で言わない。
道の真ん中で、練習したり怒鳴ったりするのは、
五代目松鶴の「崇徳院」からで、
それ以前(二代目三木助や四代目松鶴)には、
出てきません。
…ということは、五代目松鶴から教わった線は
薄くなってしまいました。
兎に角、床屋や風呂屋で「せをはやみ」と
言い出すのは、かなり古いやり方です。
・馬生のサゲは無し
「めでたい話」として終わります。
ネタ名は「花見扇」でいいんじゃないの?
と思ってしまいましたが、
馬生の「崇徳院」を聴いていると、
形は崇徳院だけど、そこかしこに、古いやり方、
江戸の「皿屋」「花見扇」や上方の古い「崇徳院」が
混ざっていて、そこが凄く面白いと思います。
東京の「崇徳院」は、
三代目三木助の専売特許とまで言われましたが、
三木助が移植する他に、
別のルートから、上方から崇徳院が流れてきたものが
あったんだと思いました。
江戸の匂い(皿屋・花見扇)を残しながら、
上方の崇徳院を、東京に移した。
三木助の移植の仕方は「一新」系で、
一から仕立て直しているイメージがあります。
馬生さんのは、「つぎはぎ」系ですね。
それもまた、味があっていいと思います。
20分そこそこで、ここまで聴かせるとは
驚きです。
それにしても、馬生さん、
カミカミのうろ覚えやなあ(笑)。
めっちゃ可愛いと思います。
多分、次の日の落語会で、
リベンジしたんだろうなあ。
↓
十代目馬生の「崇徳院」、
テキスト化しようと思いましたが、
あえなく、タイムアップ。
105円で、3日間の視聴でした。
まだ半分もテキスト化できていません。
東京の「崇徳院」は、
三代目 桂 三木助の「崇徳院」が根っこにあって、
それ以外の型はないと思ってたんです。
例外は、志ん朝くらいで。
馬生の「崇徳院」は、私の考えを覆す内容でした。
三代目三木助が東京の「崇徳院」を作る以前、
東京(というより江戸)には、
上方の崇徳院に相当する噺がありました。
「皿屋」または「花見扇」と呼ばれるネタです。
ストーリーは似ているけども、
比べてみると、異なっている箇所が多く、
雰囲気そのものが違います。
当初は一緒の噺だったけれども、
東西に分化するのが早かった感じがします。
三代目三木助は、江戸の「皿屋」「花見扇」の
流れをくんでいない「崇徳院」を作りました。
上方から移植したんです。
自分の言葉や先輩のアイデアを足しつつ(多分)。
私が馬生の「崇徳院」を聴いて、しびれたのは、
江戸の「皿屋」「花見扇」の流れをくんでいたから
なんですね。
これはもう、吃驚しました。
・主人公が熊五郎ではなく、金兵衛です。
「皿屋」「花見扇」の主人公も金兵衛でした。
ただし上記の金兵衛は、お調子者の貸本屋で、
熊五郎のような荒々しさはありません。
馬生の金兵衛は、名前は金兵衛だけれども、
性格は、熊五郎(職人気質)でした。
・冒頭に番頭が長々と喋る。
若旦那が思いつめているようだ、思いを叶えれば治る、
そう医者が言っていたと、言っています。
多くの「崇徳院」では、
ここは親旦那の台詞になっていて、
番頭は殆ど出てきません。
こういったやり方は、「皿屋」「花見扇」に
出てくるものです。
・若旦那の部屋に入る際、
薬の匂いがプーンとして…という台詞が無い。
これは、六代目松鶴もそうでした。
古い型には薬の匂いが出てきません。
・出会いは、向島(むこうじま)の花見の茶屋。
上方の崇徳院は「高津神社」。見晴らしのよい所です。
東京は「上野の清水寺」。見晴らしのよい所です。
向島の花見は「皿屋」「花見扇」の設定に近いです。
向島とはっきり書いてなかったかもしれませんが、
(追記:上野の花見でした)
何せ、平地の花見です。
・お嬢さんが、先に茶屋で休んでいた。
若旦那は後からお店に入ってお嬢さんを見初めます。
多くの「崇徳院」では、
お嬢さんが若旦那の後に、茶屋へ入ってきて、
どういう訳か、お嬢さんが先に茶屋を出て行きます。
ここは不自然に感じるところです。
・お嬢さんが、塩瀬の茶袱紗をわざと落として、
若旦那が拾う。そのお礼として、
女持ちの扇に、崇徳院の上の句を書いて渡す。
扇に歌を書くやり方は、
六代目松鶴です。
五代目松鶴は、扇と言っていた時期もあったような
気もするのですが、ラジオでは「料紙」にしており、
上方の崇徳院は、殆ど「料紙」になっています。
一方、東京の三代目三木助は、
桜の木の枝に下がっていた短冊が落ちてきて、
そこに、たまたま崇徳院の上の句が書いてあって、
お嬢さんがそれを拾い、若旦那に渡す。
東京では、このやり方が多いように思います。
志ん朝は、お嬢さんが短冊に書いて渡すやり方にしてましたが。
扇に歌を書いて相手に渡すのは、
平安時代の貴族がやっていたように思います。
上方の崇徳院の古い型は、
京都の清水寺が舞台で、小僧同士の喧嘩を仲裁した
若旦那に、お嬢さんが歌を書いた扇を手渡したそうです。
兎に角、「扇」は、かなり古いやり方です。
・金兵衛が二回、母屋を訪れる。
親旦那が、お嬢さんが見つかったと、
勘違いして、金兵衛にご馳走を出せ、と口にしますが、
違うと分かった途端に態度を変えます。
これは、三代目三木助が削った場面で、
東京の崇徳院では、
全くと言っていいほど見られないものでした。
なぜ、馬生は、
この場面を入れたのでしょうか。
ここは、「皿屋」「花見扇」でも無い箇所です。
五代目松鶴から稽古をつけてもらったと、
本に書いてありましたが、上方の匂いを感じます。
(ちなみに、ご馳走は、ぶりの照り焼きと、お酒)
・せをはやみ~!と、道の真ん中で言わない。
道の真ん中で、練習したり怒鳴ったりするのは、
五代目松鶴の「崇徳院」からで、
それ以前(二代目三木助や四代目松鶴)には、
出てきません。
…ということは、五代目松鶴から教わった線は
薄くなってしまいました。
兎に角、床屋や風呂屋で「せをはやみ」と
言い出すのは、かなり古いやり方です。
・馬生のサゲは無し
「めでたい話」として終わります。
ネタ名は「花見扇」でいいんじゃないの?
と思ってしまいましたが、
馬生の「崇徳院」を聴いていると、
形は崇徳院だけど、そこかしこに、古いやり方、
江戸の「皿屋」「花見扇」や上方の古い「崇徳院」が
混ざっていて、そこが凄く面白いと思います。
東京の「崇徳院」は、
三代目三木助の専売特許とまで言われましたが、
三木助が移植する他に、
別のルートから、上方から崇徳院が流れてきたものが
あったんだと思いました。
江戸の匂い(皿屋・花見扇)を残しながら、
上方の崇徳院を、東京に移した。
三木助の移植の仕方は「一新」系で、
一から仕立て直しているイメージがあります。
馬生さんのは、「つぎはぎ」系ですね。
それもまた、味があっていいと思います。
20分そこそこで、ここまで聴かせるとは
驚きです。
それにしても、馬生さん、
カミカミのうろ覚えやなあ(笑)。
めっちゃ可愛いと思います。
多分、次の日の落語会で、
リベンジしたんだろうなあ。