クリスマス

23日の祝日から25日まで、
フィギュアスケート尽くしでした。
24日にケーキもプレゼントも出してしまうので、
25日はクリスマスらしきものを
全く味わった感じがしません…。

今日は、年賀状と大そうじに
板ばさみにあった一日でした。

30日までには、何とかしないと!
(と言いつつ進まない毎年)



図書館で、
「芸能懇話6」を借りて読んでいるのですが、
大正時代の落語の出番&演目表が、
資料として載っていまして、
なんと、
大正10年11月に、
桂米之助(のちの四代目米團治)が、
「崇徳院」を出していることが
分かりました。
(大興奮)

入門して10年経ったか経ってないかくらい。
25、6歳です。
若手の会で出してました。
(ちなみに、10月は「景清」を演ってます)


今まで分かっていた明治大正期の「崇徳院」は、
・明治43年発行の「豆たぬき」という本に、
二代目桂三木助口演
・大正12年発行の「滑稽落語名人揃腹鼓」という本に、
四代目松鶴口演。
(大正10年の速記本にも松鶴の「崇徳院」が
載っているが、内容はほぼ同じか?)
(また昭和4年「落語全集」に再録されている)


これだけ見ると、
明治末から昭和の始めにかけて、
「崇徳院」って短いなりに(たぶん)、
大御所も手がけるし本の再録にも載っちゃうくらい
人気のネタだったのかなあと。
(ただ、四代目松鶴以外の大御所が演じていた、
という記録を私は知りません。
二代目三木助が後年演じていたという記録も…)

なのに、
昭和十年前後には、
「珍しいネタ」扱いされています。
元々、演じ手の少ないネタだったのが、
本に収録されたことによって、
多少なりとも知名度アップに繋がったのでしょうか?


大正10年の、
米之助の「崇徳院」って、
どんなんだったんだろう。
二代目三木助の「崇徳院」と似てたのかな?

「上方はなし」十九集(昭和12年発行か)に、
五代目松鶴の言葉として、
「かれこれ、十六、七年前に、
若手の会で「崇徳院」が出たとき、
良い噺なのにオチが二輪加オチで、感心せぬが、
どうにかならないものか、という話が出た」
「米之助君が新たなオチを思いついたが、
(詳細略)それも上手くいかずお蔵入りになった」
というような事が書いてありまして、
時期的に見れば、
大正10年に米之助が「崇徳院」を出した頃と
ほぼ一致すると思います。


良い噺だっていう認識はあったんですね(^^)


また昭和12年頃に時を進めると、
「上方はなし」十九号に、
五代目松鶴が、前述の続きで、
「同じ日に偶然、別の場所で、私と米之助君とが
崇徳院を出したので、
以前から意見が合わなかったものですから、
勢い議論の蒸し返しになりました。
私は、お嬢さんに扇子を持たすのですが、
米之助君は、扇子は下卑で良くない、色紙がいい。
と言うのです」
(※文章を簡単に直しています)


・・・
意見が合わなかったのは、
お嬢さんの持ち物だけだったんでしょうか?
私は、
五代目松鶴の熊五郎が、崇徳院の歌を暗記できていて、
米朝さんの熊五郎が、崇徳院の歌を忘れている、
という違いの方が気になるのですが。
 米之助の熊五郎も、崇徳院の歌を忘れていたのではないかと
思うんです。



この、意見の合わなかった二人なんですが、
五代目松鶴は、後年、
米之助の「崇徳院」に歩み寄りをいくらかしています。
昭和23年の彼のラジオ台本(崇徳院速記)には、
お嬢さんの持ち物は、扇子ではなく、色紙になっていますし、
(但し、色紙は四代目松鶴師のやり方でもある)
(また六代目松鶴は「扇子」に戻していることから、
色紙を出したのはラジオのみで、ふだんは、
扇子で演じていた方が多かったのかもしれない)
 お茶屋の場所が、
「高倉稲荷の傍」であった所を、
「高津さんの絵馬堂」の前にしています。

崇徳院に出てくるお茶屋の場所は、
元々「高倉稲荷の傍」でした。
二代目三木助、四代目松鶴の速記もそうなっています。
 それを、米朝さんは
「高倉稲荷の前にお茶屋があるというのは、
少々おかしいので、
師匠(米之助=四代目米團治)と相談して、
絵馬堂にした」
と、本に書いています。


五代目松鶴の崇徳院では、
絵馬堂になっていることから、
米之助(&米朝)の影響を受けて
そうしたと言ってよいでしょう。
 また、ラジオで「色紙」を出したのは、
不特定多数の顔の見えない相手に話すので、
伝統的なやり方の方が無難だと
考えたのではないでしょうか。
オチも「人徳」でなく、
「瀬戸物が割れた」。
(割れても末に買わんとぞ思う)


但し、二代目三木助、四代目松鶴のオチは、
瀬戸物屋「私の品物の所置をつけてお呉(く)んなはれ」
男(熊五郎ではない)「イヤイヤそんな事はとても出来まへん」
瀬「何でです」
男「下の句が割れても末に買はんとぞ思ふ」
・・・
弁償できない理由として、
崇徳院の歌を持ち出しています。
「買はん」=「買わない」
上方弁の否定形としての解釈です。

五代目松鶴は、
歌本来の意味として、噺の中に出しています。
瀬「(略)この仕末はどうなります」
男か熊五郎か不明「崇徳院様の下の句」
男か熊五郎か不明「割れても末に買はんとぞ思ふ」
「買はん」=「買はむ」=「買いましょう」
「ん」は、古文の「む」で、
崇徳院の歌でも
「会はんとぞ思ふ」→「会いましょう」
と、なっています。

これは、今の崇徳院でもそうですね。
五代目松鶴(もしくは米之助)が、
元の意味に正した、と言えるでしょう。


五代目松鶴にしろ、米之助にしろ、
当時の人が聴いて納得するような、
後世に伝わる「崇徳院」を残そうと
思ったのだと思います。

ただ、二人のやり方が、
ちょっと違っていたようなのですが、
(松鶴は扇子とオチを変えて)
(米之助は…歌を忘れさせて?オチは割れるものを?)
どちらも、
今の崇徳院に繋がるような、
役割を果たしたことは確かです。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

湖涼

Author:湖涼
ブログ管理人(湖涼)の連絡先
jaimo.koryou★gmail.com (★を@に変えて下さい)
@koryou_ツイッターです。
2つのアクセスランキングに参加しています。
にほんブログ村 演劇・ダンスブログ 落語へ
↑にほんブログ村

最新記事
最新コメント
リンク
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
月別アーカイブ