中之島図書館→ワッハ上方

 大阪府立図書館(中之島の方)へ行ってきました。
禁帯出の「上方はなし」を読みに…。
 その後、ワッハ上方で枝雀さんの崇徳院(DVD)を見ました。
CDのよりずっと面白かったです。(質屋蔵はCDの方が良いのですが…)
 やっぱり若旦那と熊五郎の会話部分はあった方が嬉しいですね。
生喬さんもいつか若旦那を出してくれるかな。崇徳院に出てくる若旦那は、
まだ納得できるものを見たことがありません。
女性と見間違えそうになるくらいの若旦那はダメです。
病気でも気弱でも、仕草なり言葉遣いで男前であることを示して欲しいです。


「上方はなし」は、
崇徳院が出てくるページが少なかったです。
3ページしかコピーできませんでした。orz
『現在残されている形は桂南光(後の桂仁左衛門)が演じ、
 弟子の2代目桂三木助に伝えられたものである。』
この文章の前後が、一番気になるのですが…。見つけることが出来ませんでした。
仁左衛門が亡くなった時期に出した「上方はなし」に
追悼文か何かあって、そこに入っている文章なのでしょうか?

 昭和12年時点では、「崇徳院」は珍しい噺だったようです。
「上方はなし19号」で、伊勢三郎と野崎万里が会話形式で落語を語る読み物があり、
(タイトルは「福円、米之助、米団治~「語る」上方はなしの会漫評~」です)
一部抜粋すると
「米之助君(4代目米團治の前名)の「崇徳院」、あれはどうだった?」
「サゲをやらなかったが、「崇徳院」とは珍しい出しものだった。今頃は滅多に聴けない噺だし、やっても客が喜ばないだろう」

…私は何となく、「崇徳院」は昔(といっても昭和初期くらい)、演り手が少なかったのではないかなと思っていたのですが、どんぴしゃりでした。仁左衛門→2代目三木助の型しか残っていない、という所で怪しいなあと思っていたので。お客さんが喜ばない噺だなんて、今となっては信じられません。

 5代目松鶴がサゲを変えようと思ったきっかけになったかもしれない部分をメモっておきます。結婚式の出しものとして「崇徳院」を時々したらしいのですが、どうしてもサゲに出てくる「割れる」という言葉が使えなかったそうです。私はサゲが多少まずくても、内容が面白ければ人気のある噺になりえると思っています。という事は、昔の「崇徳院」は、余り面白い噺ではなかった、また面白く演じる人が少なかったという事になります。

 「崇徳院」の面白さは、熊五郎が無理難題を言われて、駆けずり回るところだと思います。ここで、ああ大変そうだなとか、可哀想だなと、お客さんに余分に同情させては、聴いている方も疲れてしまいます。熊五郎のふてぶてしさや図太さを徐々に出していかないといけません。ここが大変難しいところです。恐らく、5代目松鶴までは、はっきりと「ここで熊五郎のふてぶてしさを出す」というテキストがなかったのでしょう。全て演者の腕に委ねられていたのです。それを「欲と二人連れ」と良くも悪くもはっきりと言語化した(あるいは人から教わり弟子米朝に伝授した)のが4代目米團治だったのではないかと思います。メリットは熊五郎がふてぶてしさを得て前向きになる点ですが、やり過ぎると熊五郎の忠義心を問われかねません。また演者が懇切丁寧なテキストに頼り切ってしまうと、噺の裁量がきかなくなる事もあります。

 それは、4代目米團治も思うところがあったのかもしれません。「上方はなし」で『米之助君の噺を聴くといつも理屈に負けているという感じがする。』と野崎万里氏に書かれています。野崎は「胴取り」や「崇徳院」を演る腕とを比べたら、上方はなしに寄稿した文章(特に「咄の味」や「おやぢよ恕(ゆる)せ」)の方が冴えていると、4代目米團治に対してかなり手厳しいことを書く人でした。(しかし4代目米團治の言う「理屈」は、そこに見逃せない「何か」があるからで、決して無駄なものではないとも書いています)。

 4代目米團治の蒔いた種が今どうなっているのか、「崇徳院」の上演頻度を見ればそれは明らかだろうと思います。しかし、彼一人では種を蒔くことすら出来なかったと、そう思うのは、5代目松鶴や、「上方はなし」に寄稿する文士たちによる影響や刺激が一方(ひとかた)ならぬものだったからだと想像してしまうからです。「崇徳院」の議論が無ければ、議論の対象にすらならない噺として忘れられたでしょう。あるいは古い姿のまま保存対象となるような噺になっていたと思います。
 

 「崇徳院」(ひいては上方落語)が廃れてしまった原因を、少し考えてみたのですが、「上方はなし」のように、噺家と批評家が交流する場が無かったからではないかと思います。明治生まれの噺家さんの識字率の低さ(これははっきりとしたデータはありません。ただ4代目米團治が若い頃、ふりがなを打っていない本を楽屋で読んでいて仲間に驚かれている思い出話があります)、それもさることながら、一番の原因は、明治時代の上方の噺家さんの派閥的な体質が、他人を寄せ付けない雰囲気を持っていたのではないかなと想像します(明治以前に生まれた噺家さんは大なり小なり刺青を彫っていたらしい)。落語という芸は口述で伝えるものだという思い込みがあったのでしょうか。それが、仁左衛門の持っていた「崇徳院」の型以外のものが分からなくなった原因ではないかと。明治大正期の落語速記本は、東京にはありますが、上方落語のものはまだ見たことがありません。空襲で焼けたという話は間違っていて、記録そのものが余り存在していなかったと、4代目米團治の子、米之助は証言しています。

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